民話

民話は、本来は民間説話の略称と考えられているが、今では昔話・伝説・由来譚などを常識的に総括する名称になっている。 むろん、これらは必ずしも歴史そのものではないが、祖先の生き方、考え方などが説き伝えられているものである。 

ここでは、田布施町に伝わる民話の一部を抜粋して掲載しています。

昔、東千坊山に山姥が棲んでいた。ここも棲みにくくなったので、遙か向こうに見える石城山へ引っ越そうと考えた。
 そこで、まず山裾にある竹尾の姥ヶ盥で足を洗い、腰掛岩に腰を下ろしてしばし名残を惜しんだ。そして、やおら立ち上がると、岸田にある落合井手の大岩に片足をかけ、おおじが瀬戸の大岩に杖先をあて、ひとっ跳びで石城山に移った。そうして、山姥の穴の奥深く籠りついたそうな。
 姥ヶ盥は、「おばんたらい」ともいう。川底の岩には、ちょうどお尻が入るぐらいの盥の形をした窪みがある。そばに祠があって、信心すれば子供が丈夫に育ち、病気もよく治るという。
 滝があり、昔は枝を延ばした形のよい松もあって、当たりはミニチュアの渓谷を思わせる、それはそれは景色のよい場所であった。

町の南に、東千坊という山がある。そばをスカイラインが走っていて、よく晴れた日には九州や四国の連山までも望むことができる。
 昔は、僧坊が千あったので千坊の名があり、今も山中からは布目瓦が出土する。「これを持ち帰ると腹がせく」といい、「朝な夕なに日が照って昼は蔭になるところへ黄金の宝がかくされている」とも言い伝えている。
 一説に、千坊山妙相寺という真言宗の大寺があり、末寺も三百以上あって栄えていた。ところが、時の住僧が法力の慢心から、沖を行く船に法をかけしばしば悩ませていた。ある時、船に奇僧があってこれを悟り、遙かに山と海とを隔てながら行法を争った。そしてついに住僧が敗れ、虚空から火炎が降りて来て、その身や諸堂をことごとく焼失したのでこのような破滅の地になった。
 また一説に、千坊には法のきく坊さあがおって、足長蜂に法を吹き込んで、沖を通る船を焼き殺しよった。ある時、法のかけぐらをして負け、お寺は軒から火を吹きだした。「こりゃあいけん」というので、仏様を光喜庵へ疎開させた。
 地名の布干は、坊さあが布目瓦を造る時に用いた布を乾かした所である。また、国僧という所には閼伽の池があるほか、山中には八重桜の古株や石段の跡、るいるいたる古墓なども残っている。
 山麓の瑞松庵・宝樹寺・大泉寺などは、いずれ

も妙相寺の末寺であった。真殿の蓮華寺右脇仏壇に安置されている黒地蔵尊も、東千坊山妙相寺伝来のものだそうな。

 木地の山の手に、源光様という小祠がある。
 それは、元和二年(1616年)の秋の日の黄昏どき。鉦(かね)を持った六部姿の一人の男が、とある農家の前に立って、
「ごめんくだされ、ごめんくだされ。」
 聞き慣れぬ声に農家の妻女は、
「どなた様でございましょう。」
「道に迷って行き暮れた者、どうか一夜の宿をお願いできますまいか。」
 戸を開けて見ると、どことなく人品いやしからぬ様子。そそうがあってはと、
「わたしの家は、ご覧の通りの子沢山、お泊めしても安らかにお休みできますまい。すぐ上に静かな所がございます。わたしからもお頼みしてさしあげましょうほどに。」
と。
 それから数日を、心やさしい里人たちの中で過ごした六部は、何を思ったか山の手にコツコツと横穴を掘り始めた。
 そして、ある日のこと。里人を前にすると、
「実は、わたしは京の堀川という所に住んでいた源掃部頭忠光という公卿の成れの果てでございます。今では、都に心を残す何者もありません。心やさしい皆様に見守られ生を終えることが、今のわたしのただ一つの願い。ただ今からこの穴に定入りし、命のある限り鉦を叩きますので、もし音が聞こえなくなったら命も消えたと思って、石で蓋をしてくだされ・その日を命日としてお祀りくだされば、今後一切、日向七軒に火難はなくなりましょう。」
 言い終えるとお米八十粒を持ち、泣いて止める里人の手を振り切って穴にこもった。そして二十一日目のこと。それまで細々と聞こえていた鉦の音が途絶え、呼べど叫べど何の応えも返ってこなくなった。
 そこで、陽の射す場所にあった七軒が相談をし、山の手に祠を造って、毎年十月二十一日の命日にはささやかながら精一杯のお祭りをすることにした。源光様が定入りされた辺り一帯を堀川と呼び、今では日向七軒も少なくなってはいるが、お祭りはずっと続いている。
 その後、近くで山火事が起こったことがあるが、源光様をお祀りしている日向七軒の方は難を逃れることができた。

 蛭子ノ内の田圃の中に、流れ恵比寿と呼ばれる小さな祠がある。昔は、お祀りの日には相撲があったり出店が並んだりで、それは賑やかであった。
 これは、今の新庄から余田を経て田布施にいたる平野部が、平生湾へ通じる一連の水道であった昔のことである。八和田と蓮台寺の間の辺りは、唐戸の瀬戸と呼ばれていた。
 ある日、この瀬戸に、恵比寿様の木像が流れ着かれた。それを、蓮台寺の吉光法印がお迎えし、お祀りされたものである。
里謡にも、
  広い広島にゃ
  緑がのうておれぬ
  狭い田布施の
  田の中に
と、歌われている。
 一説に、この恵比寿様は、はるばる広島か潮に乗って来られたもので、そのため俗にいう宮島の七浦七恵比寿は一つ欠けているそうな。
 ともあれ、腰まで潮につかって難儀されたせいが、信心すれば腰から下の病に霊験あらたかである、という。

 地家にある西円寺に、古くから伝わっている蓮如様の御絵像がある。 それは、いつ頃のことであったか。ある晩、本堂に盗人が入った。暗闇の中で、手当たり次第に大風呂敷に包むと、それを背負ってすたこら逃げ出した。 平田川の上流辺りまで来た時、あまり重いのでめぼしい物だけを包みなおして、また何処ともなく逃げ去った。 その夜のことである。井神の長井音吉さんの夢枕に、蓮如様がたたれた。信心な音吉さんには、その方が、西円寺の如来像の脇に掛かっておられる御絵像の蓮如様であることは、直ぐわかった。 そして、「おお、足が冷たい。早よう迎えに来てくれ。」と、しきりにおっしゃる。 不思議に思った音吉さんが、夜が明けて夢に見た辺りまで出てみると、水がちょろちょろと流れている場所に、ほどけた御絵像が放り出されていた。よく見れば、お軸の下は足のあたりまで水に浸かっておられる。「ああ、なんと、もったいないことを・・・。」と、音吉さんは、すぐさま西円寺の本堂までお連れした。 こうしたことがあってから、この御絵像は「おみ足洗いの蓮如様」と呼ばれるようになった。この御縁から、同寺では今も、五月十四日の蓮如忌が厳修されている。

 八海(やかい)の丘陵上に、蟹守様という小さな祠がある。 昔、田布施川の河口付近には、赤い色をした蟹がたくさん棲んでいた。ぞろぞろと陸に上がってきて、道はいうにおよばず家の中にまで入り込む有様であった。「うっかりして、踏みつぶしちゃあ、かわいそうな。」と、心のやさしい、村人達は相談した。 そして、河口が望まれる一番眺めのよい小山の上に、小さいながらも立派な祠を造ると、「どうか、蟹が出なくなりますように。」と、お願いをした。 それからは蟹も出なくなって、なた穏やかな日々が過ごせるようになった。

 昔、尾津に、大田三津右衛門という船頭が住んでいた。祖父久右衛門の代には、お酒を商っていた。 ある日、五反田の辺りで休んでいると、不思議にも竜女に導かれて海中に入り、乙姫様がいる竜宮を見てきた。また、その後にも、竜宮の遊び船というものに近付いてお酒を売り、価に扇子と小玉銀をもらった。それからは、毎年海辺に門松を立て、それを竜神が受納して海中に引き取っていた。  そして、間もなくのこと。辺りの田園の中から、黒く輝く手毬のような珍しい石が出るようになった。村人は、それを玖の玉と呼んで、大切にしてきた。 門松が立てられた海辺は、麻里府海水浴場として長く親しまれてきたが、今は立派な波止場に変貌している。